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« 卒業設計、終わってしばらく経ってみて。 | 気になるもの、骨董 »

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厨二病とクラシックとモダニズムと侘び寂び

厨二病という単語がある。なんとも言いがたい単語なのでここでは説明を省くが、厨二病な~という表現もよく使われる。
自分は昔よくHM/HRと呼ばれる音楽ジャンルを聞いていた。今でも好きなので決してけなすわけではなく、まさに厨二病な音楽ジャンルだと思う。
そしてHMのルーツは得てしてクラシックであることが多い。ゴシックメタル、シンフォニックメタルと呼ばれるまさにそれ!といったものに限らず、なきメロと呼ばれるリフやソロ、演出過剰な展開などなど、随所に感じることが出来る。そういった様式美を打ち崩す方向性も打ち出されたが、あくまで反様式美という様式美なくしては成り立たないアイデンティティであったり、結局様式美を取り入れてごっちゃになったりと結局切っても切れない関係である。
日本においては歌謡曲とHMのミクスチャーとしてアニソンが発展しているとも言え、まさに厨二病感を伝えている。アニソン黎明期において、歌謡曲からは歌手や作曲作詞家が、メタル界からはバックミュージシャンが多く参加していたから当然の帰着といえる。
厨二病という単語が持っているひとつのニュアンスに〝装飾華美〟というものがあるように思う。メタルやアニソンはまさにそんな感じであり、演出過剰といったところか。そんなとこに聞き手は酔いしれ自分にとってのBGMとして歓喜するわけだけれども。
今は〝やりすぎ〟が批判される時代である。適度な抑制や余白が求められ、そこに美学があるとされる。過剰な何かは美しくない、と。
それは作り手の行き過ぎた行為が批判されるということではないだろうか。受け手の自我が発揮されるようになり、機能性や合理性で「受け手が納得する」もしくは余白や自由性などで「受け手が自由に想像したり解釈や構築に介入できる」余地が求められるようになった。
受け手のある種のプライドがそこにあり、ある一線を越えると拒否反応が発生する。作品などが強く自己主張しすぎるとよろしくないのである。昨今優れるとされるものの中に仮にそこに強い自己主張があったとしても、受け手が何かしらの解釈を加える過程を求めたり、大衆性とは少し違ったアイデンティティを有するなど、受け手のプライドをないがしろにしない要素が必ず含まれているように感じる。
そういった受け手の自我の発達を作り手が感じ取り、しかし自分たちが納得するための禁欲的な葛藤がモダニズムの誕生と発展を促したように感じる。大枠の運動や活動としてのモダニズムはポストモダニズムをもって終焉したとされるが、現代の資本主義社会において精神としてはそれに近いものがあり続けているように感じる。華美な装飾や様式美を批判しながら生まれたモダニズム、クラシックからのアニソンやメタルをダサく厨二病だと感じる現代社会。似ている部分もあるのではないか。正直モダニズムに対してはまだまだ勉強不足と感じるのでこのあたりの推察に関しては自信がないが。
日本における侘び寂びとは自我と事象との対話の上に成り立つ概念だと思う。受け手が何かを感じ取ることから始まるものであり、そういう精神状態を得るために茶道や書道が発展する。短歌や俳句はそういった受け手の感性の発露であろう。
侘び寂びは日本人独特な感性だときくことがある。実際はどうなのかは知らない。どんな民族もとかく自分たちは独特だと思いたがるのであまり期待していない。だけどもそんな日本で生まれた厨二病という単語。興味深いではないか。

自分は社会の中で何かを作り続けたいと思っている。そこには必ず受け手が存在し、作るものを通じてどう向き合うかが、必ずや問われていくだろうと思う。
概念や言葉や文化や運動は、そういった作り手と受け手とその間にある創造物のあり方についての歴史であり、知識としてではなく自分のこれからの思考を助ける道具として勉強していきたいと思う。
まだまだ何も答えが出ない。
今日も何となく音楽を聴きながら、身近な単語から連想しながらつらつらと考えただけに過ぎない。
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